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六甲山で暮らすリアル Vol.1 都会と自然両方あることで心のバランスが培われる
六甲山上の山腹に建つ一軒家を購入して改修を加え、1年前から家族で引っ越してきた髙山春香さんに話を伺いました。現在は山の上で3人のお子さんの子育てをしながらリモートで子育て支援関連事業(保育園の運営など)の仕事をしています。
大都市で感じた子育ての限界
――この場所へはいつ越してこられたのですか?
2023年1月です。前年の4月に東京から神戸に移ってきていたのですが、家の改修が終わるまでは一時的に団地の物件を借りて住んでいました。
――越してきたきっかけは? もともと神戸の方だったのですか?
神戸市灘区の生まれです。大学は大阪で、就職先はカタログ通販の会社だったのですが、本社が大阪なので就職してからも神戸住まいでした。けれども夫の仕事の関係で2011年から東京に移り住み、そこから10年間東京で暮らしました。会社には希望を聞いてもらって東京本社に異動しました。そして3人の子どもを東京で産みました。
もともと通販事業部でしたが、保育園事業を行う子会社が新たに立ち上がり、以後はそちらで働くことになりました。
――東京で生活の基盤ができていらっしゃったのにどうして?
保育について学ぶ中で、子育てをする環境について疑問が生まれてきました。東京は大人が住むにはすごく楽しい街でエネルギーに溢れている。けれど子どもにとってはやっぱり自然が大事なんじゃないか?と。人的環境、物的環境、自然環境という、3つの環境について教えてもらったのですが、人とモノは与えられるけれど自然だけは限界がある。もちろん東京に住んでいても自然に触れられないことはないですが、1時間半かけて混んだ電車に乗って人がいっぱいの山に行く。なんだか懸命になって取り入れようとしていました。神戸だったら六甲山にすぐ上がっていけるのに……と幾度となく思いました。
コロナ禍、子どもからのSOS
――神戸に戻ってくる具体的な契機がありましたか?
直接的なきっかけはコロナ禍になったことです。会社で運営している保育園でも陽性者や濃厚接触者が出たと急な対応に迫られ、園長先生たちと昼夜問わず連絡を取り合いながら対応しなくてはいけない日が続きました。
ハードでしたが私自身は大人でしたからなんのかんの言って夜にビールを飲めば何とかなっていたのですが(笑)、問題だったのは子どもに負担がかかっていたことでした。夫は海外で土木関係の開発を支援する仕事をしているので日本に居られないことが多いのですが、コロナ禍のときは逆に家に居たので、家族のサポートを積極的にしてくれました。でもそこにかまけて私が仕事詰めになってしまって……。子どもたちはやはり母親でないといけない場面もあります。そこを十分にできていなかった。
とりわけ長男は小学1年生でしたが、かなりストレスを溜めていました。コロナ禍で小学校に入学し、給食も皆とおしゃべりしながらではなく、ただ前だけ見て黙って食べないといけなかったり、その前年、保育園の年長さんのときは行事もお泊り保育も遠足もできずじまいでした。人の目が気になって兵庫のおばあちゃんのもとに会いに行くこともできませんでした。そして私は時間関係なくコロナ対応に追われていて子どもと向き合うべきときにできていなかった。相当しんどかったんだろうなと。子どもなりのSOSを出していたんでしょうね。
このままでは子どもの安定した情緒が損なわれ、健やかな未来も奪ってしまうかもしれない。これ以上無理させてはいけない。そこで「仕事、辞めよう!」と。職場に仕事を辞めるつもりであること、実家のある神戸に戻ろうと思っていることを話しました。理解のある職場で了解してくれ、さらには会社を辞めても業務委託としてリモートで働かないかと言ってくれました。
そして仕事を辞めてまず考えたことは、子どもを六甲山小学校に入れることでした。
山の上に住むなんて想像していなかった
――それで山の上の物件を探し始めた?
いえ。六甲山の上に住めるなんてことはまったく思っていませんでした。
六甲山小学校は越境入学できることを知っていたので、街に暮らしながら通わせるつもりでいました。けれど不動産サイトを見ていたらこちらの物件が載っていて。「古そうだし……」「山に住むのってイメージ湧かない……」と引け腰でしたが、結局気になって、当時はまだ東京に住んでいたので年末年始の帰省のタイミングで内見させてもらいました。
まさかそのときは、そこに住むなんて現実味を帯びていませんでしたし、夫も自分ごととは到底思っていませんでした。冬の寒い曇った日で、今この家で感じる開放感とは第一印象は違いました。
けれど内見に来たとき長男がその辺に落ちている木の枝を持って楽しそうに走り回っていたんです。その光景がずっと脳裏に残っていた。仕事を辞め、引っ越しもあり、東京の家も買い手を探し中。このタイミングで次の新しい家を、しかも山の上で購入って、いやいやないでしょと自分に言い聞かせつつ、そのときの子どもの様子を思い出すにつけフツフツと気になってきて……。
気づけば夫を前に座らせて「なあ……、あの家買うの、どう思う?」と説き伏せにかかっている自分がいました。
1年目の試練
――実際引っ越してみていかがでしたか?
1年目はとにかく大変でした。越してきた1月の末に10年に一度の大寒波が来て、いきなり水道管が凍結、水道屋さんに電話しても「溶けるまで待つしかないですね」の返事。そんな!自然の摂理そのままなんだ……と絶句。ぬるま湯をかけたりもしましたが効果がなく結局2週間近くそのまま。でも街が近いので下の子が通う街の保育園へお迎えに行ったついでにコインランドリーで洗濯して、安いお店でご飯食べて、お風呂屋さん寄って。そして山の上の家に戻って寝るという日々を過ごしました。あるいは実家に避難したり。ただ、とにかく街と近いので、「意外と何とかなるやん」と開き直れました(笑)
――他にも試練はありましたか。
試練だらけです(笑)。凍結した水道管が溶けた途端に破裂したり、豪雨で木が倒れて石垣がくずれたり。街育ちですからすべてが初めてで、もうどうしていいかわからずパニック。夫も出張中でしたから頼る人もいない。
でもまだ面識もなかったときから、近所の方が助けてくださいました。駆けつけてくださったり、石をどける作業をしてくださったり。適度な距離感で、でも何か困った時は助けてくれたり声をかけてくださる点がありがたいです。最近では六甲山小学校を通じてつながったママ友たちが話を聞いてくれます。うちもそういうことあったよ!大丈夫!って。
追い詰められる感じがなくなった
――お子さんたちの変化は……。
子どものありのままを受け入れてあげたい、先回りして怒るのは違うと心では思っていても、都会に住んでいたときは子どもの生活音が逐一気になっていたし、それがご近所迷惑になることへ神経を尖らせていました。今だってドタバタやってます。私も相変わらず、子どもたちが思い通りに動いてくれないときなど、大きな声で叫んでいたりしています(笑)でも、ここでは音に気持ちを尖らせる必要なんてありません。
子どもたちも、東京時代はどこにも逃げ場がなかったけど、今は別の部屋とか、テラスとか自分の居場所を見つけることもできていて、心にゆとりがあります。
――お子さんたちの遊び方は変わりましたか?
相変わらずYoutubeもAmazonプライムも観ていますが、でも学校から帰ってきたら記念碑台に友達が集まってるから行ってくる!とドッジボールしにいったりしています。六甲山小学校で遊ぶお友達は10名ほどいます。学年関係なく一緒に遊ぶのもいいですね。自然のことも詳しくなりました。
――下のお子さんたちはまだ小学生ではないですね?
はい、次男が6歳、長女が3歳で、ふたりは山の下の保育園に通わせています。でもそれも六甲山ならではというか、街の保育園まで連れていくにしても車で15分ですから。自然の中に身を置きながら都市の生活もあきらめなくて良いところが特徴です。
バランス感覚を持ちつつ成長していって欲しい
――畑もされていらっしゃいますよね。
はい、そこの斜面のところに。崖が崩れてきたときの岩を運んで土留め(どどめ)にして段々畑にしました。
考えてみれば、東京にいたときは何でもお金を払って外注してつくってもらっていました。
でも越してきてすぐいろんなことがあって、山って厳しい、自然って綺麗事でないと痛感しました。崖が崩れたり寒波で水が凍ることを経験して、命をつなぐためには、暮らしに関わるひとつひとつを自分の手で行うことが大事なんだと気づきました。何でもお金で買えるようになったことで見えなくなってしまっていたけど、生活の営みが少しずつ自分の手の中に戻ってきつつあるという感覚があります。
子育てにおいてもそれは通ずることで、自然の中で暮らすことにストイックになる必要はないと思うし、彼らが暮らす世界はiPadがない世界ではないでしょう。けれど、自然も隣りにあって、どちらともうまく付き合っていけたら、バランス感覚が培われるのではと思っています。街と山が近い。都市的な暮らし方はありつつ、でもそれがすべてじゃない、違う世界もあるんだということをこの場所が教えてくれています。
髙山さんのインスタグラム。山の暮らしを綴っています。
@745_on_mountain
(コラム執筆・写真=安田洋平)