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山と仕事Vol.11 保養所に一般利用できるカフェを併設、六甲山の新しい魅力に。築90年以上の歴史を受け継ぐ、企業発信の再生プロジェクト。

神戸市に連なる六甲山系。その山上に、かつて多くの企業が保養所を構えていた時代がありました。それらの建物は、今や活用されず空き家となったり、あるいは静かに取り壊されていきました。しかし、そうした流れに抗うように、一棟の歴史ある建物が再生を遂げています。創業から長い歴史を持つ老舗企業・太陽鉱工(株)が所有する旧保養所「紫映荘」。保養所のリニューアルを機に、その一部が一般利用できるカフェ「百合珈琲 六甲山」に生まれ変わりました。
「百合珈琲 六甲山」のなりたちについて、神戸市から委託を受けて、六甲山の空き家活用に携わる「空き家コーディネーター」が、太陽鉱工(株)社長の鈴木一史さん、(以下「鈴木社長」)、百合珈琲オーナー、百合千佳さん(以下「千佳さん」)にお話しを伺いました。
テナントカフェ+保養所という新しい再生スキーム
1935年に別荘として建てられた「紫映荘」。この建物は、昭和初期の建築様式「昭和モダニズムマテリアル」を色濃く残す非常に珍しい存在でした。しかし、老朽化が進み「長年使われないまま放置されていた旧保養所をどうするか」という問いは、以前から社内にもあったそうです。土地リース契約の更新期限が迫っていたなか、更新するならば建物を使える状態に戻す必要があり、相応の投資が求められますが、単に保養所として再開するだけでは不十分だという認識が、経営層の間で共有されていました。社員が利用できる福利厚生施設としての機能は維持しつつ、それ以上の価値を生み出さなければならない——そうした意志のもと、空き家活用プロジェクトは動き出しました。

保養所はあくまでも社員とその家族のための場所であり、ビジネスにも活用する場としてのイメージはありませんでした。しかし、コロナ禍を経て世の中全体にリモートワークへの関心が高まっていくにつれ、社内でも非日常的な空間で仕事をするという新しい働き方の可能性についての議論がされ始めました。そうしてみると、あらためて六甲山上は、まさにうってつけのロケーションであると再認識することになりました。

また、当初、テナントを誘致して外部の人々に施設を開放するという発想も社内にはありませんでした。神戸市で六甲山の空き家活用を担当する部署に相談するなかで外部の専門家の紹介を受け、歴史ある建築をリノベーションして引き継ぎながら維持するためのアイデアとしてカフェの併設案が挙がったのです。
鈴木社長:従来のように我々だけの保養所に留めた場合と、テナントを入れて建物を維持したうえで、地域や観光者に開放した場合とを比較した時に、たとえ失敗してもチャレンジしてみる価値があるんじゃないか、面白いんじゃないかと思ったんです。それに、宝塚で営業されていた百合珈琲さんの評判を社内でかなり早い段階からちゃんと調べていて、実際にお店にも足を運んでいましたので、お会いしてみて百合珈琲さんなら大丈夫だという確信がありました。
こうして旧保養所をリノベ−ションしたテナントカフェ+新築の保養所兼リモートワークスペースという再生スキームが生まれました。

コーディネーターを通じて出会った古いものを慈しむパートナー
太陽鉱工(株)が、百合珈琲をパートナーに選んだ理由は、珈琲店としての実績だけではありません。百合珈琲の創業は1960年。創業者であるお父様から、娘の千佳さんへと受け継がれ、現在も昭和48年製の直火釜で焙煎しています。時を重ねてこそ生まれる価値。敬意と共感が千佳さんのお店づくりの根幹にありました。
千佳さん:なぜ、こんな古い焙煎機を使っているかと申しますと、昔ながらの焙煎機は、内釜が分厚い。今は、もう作る職人さんがいなくなり、こんな分厚い釜は作ってないそうです。欧米の熱風式コーヒー全盛の時代に少し時代遅れな感もある直火珈琲ですが、昔ながらの厚釜は日本独特の珈琲を作り出します。この釜でしか出せないとろりとした甘味が出ます。お店も 65周年になりますけど、古いものを大事にしたいっていう気持ち一つです。この六甲山のお店も古いものを一緒に大事にしていきたいという気持ちですね。
このような共感のベースがあるからこそ、リノベーションでは、できる限り古いものを活かすことにこだわりました。山積みになっていた古い椅子はファブリックを張り替えて蘇らせ、建具は使えるものをすべて再利用しています。床下が腐朽していた部分は修繕し、長年使われていなかった暖炉は実際に火を入れられる状態に復元されました。時代を重ねることでしか生み出せない空気感。それを意図的に残すことが、「百合珈琲 六甲山」のこの空間にしかない個性として引き継がれています。

「空き家コーディネーター」によるマッチングにより動きだした活用計画は、企業が単独で意思決定を進めるのではなく、客観的な視点を持つ外部の専門家が介在。具体的なテナント候補を提示したり、場合によっては資金計画の整理をサポートしつつ、神戸市の補助金制度との橋渡しを担うことで、プロジェクトは現実的な輪郭を持ち始めました。
鈴木社長:会社としては、建物に思い入れがあって残していきたいという気持ちがありました。でも、この古い廃屋のようだった建物の価値を客観的に理解して、引き継いでいくべきものとして評価いただけたことが再生を進めることにつながりました。我々だけでしたら、そのような評価に至らなかったかも知れません。
地域への開放が六甲山の新しい魅力づくりに
こうして誕生した複合施設「スズノネヒュッテ」は大きく二つの機能を持ちました。一つは太陽鉱工(株)の社員とその家族が利用できる保養所・リモートワーク拠点の機能であり、もう一つは「百合珈琲」が運営するカフェであり、地域の人々や観光客に開かれた空間としての機能です。保養所部分は新築の福利厚生施設として整備され、カフェ部分はリノベーション工事で整備されています。そして、カフェ部分のテナント収入が今後の施設の維持管理費を支える仕組みが整えられました。

社員の利用については、毎年の新入社員研修でこの場所を訪れるようになったことで、若い世代には自然な形で「スズノネヒュッテ」の存在が周知されつつあります。また、リモートワークの場として実際に利用する社員も現れ始め、夏休みには家族連れでの宿泊利用も始まりました。

宿泊施設の運営は、できる限りシンプルな仕組みで行われています。利用した社員自身が清掃を担い、使い捨てのシーツや枕カバーを用意することで衛生面を確保する。専任の管理人を置かず、必要に応じて担当者が足を運ぶというスタイルは、コストを抑えながら施設を維持するための現実的な選択と言えます。


「百合珈琲 六甲山」は、予想を超える反響を呼んでいます。山登りを楽しんだ後に立ち寄る登山客、ケーブルカーで上がってきた観光客、そして六甲山に暮らす地域の人々——多様な人々がこの場所に集まるようになりました。
千佳さん:私はいつかこんな森のなかでお店をしたかったので、本当に毎日が幸せです。それに、お客さんからこんな素晴らしい場所でお店をやってくれてありがとうという言葉をいただくんです。それ以上の喜びはありません。

太陽鉱工(株)と百合珈琲のチャレンジは、企業と個人店主がパートナーとなって残すべきものを残し、新しい価値をつくる試みのモデルケースになりました。長い時間、眠りについていた旧保養所が、地域に開いた場作りをしたことで、今、六甲山に新しい魅力をつくっています。
六甲山には使われなくなった保養所や施設が、まだまだ残っています。維持や対処を所有者の「課題」として悩むのではなく、この事例を参考に「新しい価値作り」として捉え直してみてはいかがでしょうか。
太陽鉱工株式会社
総合商社であった鈴木商店の子会社を前身とし、戦前から現在に至るまでレアメタルやレアアースを扱う企業として知られています。本社は神戸市中央区。
百合珈琲
宝塚市のスペシャルティコーヒーを100%使用した新鮮な珈琲豆をご提供。1960年創業。2025年に「百合珈琲 六甲山」をオープン。